PROFILE
hair&make 坂本友美(MO)
千鶴伽 ちづか
福岡県出身・カニ座・O型
千鶴伽 プロフィール
福岡県出身。東京在住。幼稚園の頃に歌手を志す。波止場で泳ぎ&釣り、そして登山。小中学時代はバトミントンに加え、陸上競技、バレーボール、空手、ソフトボール、卓球などで、フィジカルを鍛えた。山口百恵に心酔、20歳で武道館でやって引退!という人生を夢見ていたが、小四の時の母親の交通事故、その後の闘病生活でヤングケアラー的日々を過ごす。宗像高校→福岡教育大学へ入学し、バンド活動に没頭。卒業後、バンドAのメンバーとトラックで上京し、2年後ソロ活動に。以来、中高生の家庭教師とシンガーソングライターの二足の草鞋を天命とする。
以来、セルフマネージメントにより全国的にライブ活動を展開。2003年、北海道檜山郡の江差北中学校イメージソングを制作。北海道で車椅子バスケットボールの選手と出会い、単独で2004年アテネパラリンピックへカメラを抱えて突入後、撮影してきた試合映像を選手に配るなどしてパラリンピック協会からクレームを受ける。2008年、日本製紙釧路工場のイメージソングを制作。同年、渡嘉敷マラソンテーマソングを制作し、発表当日には自らも10kmコースに出場、年齢別で金メダル、女子総合で銀メダルを獲得。
日本の童謡を愛し、高齢者施設コンサートをライフワークとする。建設会社やパチンコ業界など、企業へ企画提案し、福祉大使として施設でのイベント活動をするなど、独自の音楽活動を展開中。(HPのPROFILEのところから、『老人施設への出張コンサート』をクリックして、新聞記事などご覧になれます)
2000年CDデビュー以来、13枚を発売。カラオケDAMに2曲有り。地元の福岡では2001年から春と秋にゆめタウン遠賀店でのイベントコンサートを、東京では年に1度のソロライブを、継続中。
2024年4月2日にBLUEMOOD(汐留)にて14枚目となるNEWアルバムの発売ライブが決定!
2000年
9/15に故郷の隣町、尾崎区での「伊豆地震&敬老のためのコンサート」に出演させていただいた時の事。8月の北海道ツアー(8/17~20)、それに、この後に続いた9/21~24の老人ホーム&南九州ツアー、10/11~10/15の5連チャンの大阪~北九州~祭り岡垣のツアーと、鬼のようにライブが入ってて、出演に関してはかなり迷ったのですが、主催者の熱意に負け、赤字覚悟で帰省して大正解!ほんとにステキなコンサートでした。
昼の部は50人くらいの爺婆様がお客様、夜の部は中高生~ママさんまでイロイロ100人位?主催の尾崎区のおじちゃん達の、熱意あふれる、手作りのコンサート。
リハーサルを終えた私に、スタッフの一人である、感じの良いおばちゃんが「千鶴伽さんは(岡垣町の)内浦(うつら)出身なんでしょう? 東京で頑張ってらっしゃるって聞いてますけど。
まあぁ…あんなところ(つまりド田舎ということ)に、そんな活動的な女性がおらっしゃったなんてねえ。
ずーっとむかーし、そういう人があの辺りにいて、私が勤めている農協の文集に作文が載ってたんよ。」と。
そして昼、夜の部と、蓑ちゃん(ドリームボートの店長)のギターと2人で本番を無事に終えた、打ち上げの席。
私の本名を聞いた、さっきのおばちゃんがですねぇ、「まあ、あなた、まさかあの英語塾をしてられた宮内さんって人の娘さんじゃないのぉ~!まぁぁぁ~!お母さんの血をひいとられるんやね ぇ!」と絶叫!!
実は私が小5の時、亡母は大事故に遭い、乗ってた車が大破。
奇跡的に命をとりとめましたが、当初、もう助からないとか、両足切断とか、よくて一生車椅子とか言われてたのでした。まだ子供だったので、こわくて聞けんかった事もあり、記憶の片隅に残る言葉を思い返すと、確か体中400針くらい縫ってるとか、左目の視神経が切れて見えなくなってるとか、ヒザやヒジなどに金具?をうめこんでるとか。で、2年ほどの入院生活の後、奇跡的に回復し、足を引きずりつつも、日常生活に問題ないとこまで回復、英語塾を再開。
結局、それもむなしく、私が高3の夏に、ガンがみつかり入院、12月4日に、4ヶ月の本当に壮絶な闘病生活の後、他界しましてね。ちょうど思春期だったし、私が高3、妹が中3、弟中2の時で、おそらく3人とも、一人の人間として、母親と対等に話せないままになってしまいました。
自分の生きがいの事を、その事故からの復帰をからめて書いた作文が、農協の文集に載って地元で話題になった話は、チラホラと聞いた記憶が残っているくらいで、兄弟3人共、そんなの読んだこともなかったし。
そのコンサート後、父に聞いても、持ってなくて。 何より嬉しいのは、そのおばちゃんは母親と面識はないのに、その作文のことを強く覚えておられて、私の歌う姿を見て、母親と私を結びつけてくださった事。話は続きます。
ちょうど1ヵ月後の10/15の祭り岡垣のステージ。最後の歌を歌 い切った時、最初にステージに花束を持ってきて下さった方が、その方で、尾崎区の皆さんからのお花といっしょに、亡き母の作文のコピーを渡して下さいました。そもそも尾崎区から花束が届いたのはですね….尾崎区でのライブのCD売り上げを、私が伊豆地震の募金に寄付してて、その事を区長さんが後で大へん喜んでくれたらしく、10月15日に是非、区から花を送ろうという事になったそうで。そのおばちゃんが、「私がこの作文と一緒に持っていきますよ」って事になったらしい。 そういう役目がなかったら、おそらく前川清を見るのに入場整理券の争奪戦が繰り広げられていたくらいだから、おばちゃんはその日の会場には入れんやったと思う。
10月15日の本番の後、妹と初めて読みました。我が母上の作文。うちのお母さんらしく、自分の生きがいは「亭主や子供ではなく、塾の生徒!」と書かれてあってさぁ。
笑いましたねぇ。そんでもって泣きました、2人で。他には、小学生だった為に知らされてなかった、事故当時の状況。読むに耐えない事、いっぱい書いてあり、心にしみました。
亡くなった母の事は初めて書きます。
私は幼稚園の頃からすごく歌手になりたいって 思ってたけど、1度もそれを他の人に言ったことなくて。中学の頃だったか、こっそり応募して受かったオーディションの合格通知、よく破り捨てられてました。 “こんな片田舎から歌手になろうなんて、なんをいいよるとね!!”(何を言ってるの?なれるわけがないでしょう?の意)母自身、三味線を始め、小学生の時からピアノをやってた私の事 を、TELで友達に「千鶴香が大人になって、悲しい事があったとき、なんか、なぐさめになると思うったいねぇ」と、言ってて、驚いた事がありました。独学の英会話で、あちこちで外人の友達をつくってたこととかは、今の自分にかなり通じるモノ、ありますね。 米軍基地へ良く行ってたから、子供の時、家ではプレスリーやカーペンターズとかいう歌手の名前、音楽も?よくとびかっていて、TVで松田聖子とかが歌うと「どーして日本の歌手は下手かね?」とけなしてて。子供ながら、何故これが下手なのか理解できませんでした。やっぱり性格的に私は本当に母譲りのところが多くて。15日はいろんな人に、顔が似てきたとか言われましたね。
小五の時の交通事故までは、普通の家庭でしたが、その事故の日からはもう大変で。妹と弟の面倒をみつつ…小学校から帰ると急いで夕食を作って(よくシチューをつくりましたね。親戚のおばちゃんに教えてもらったけん!)そろばん、空手、ピアノ、バトミン トンと習い事にでかけて。夜は、お父さんのカッターのアイロン、洗濯。 高校の時、 妹とよく、どっちが夕食作るか、どっちが弟の弁当作るか…etc.ケンカしました。
そうだ!大学のとき、弟の高校入試の三者面談に、父が出張やったけん、かわりにいったらさぁ。担任が新任の同じ大学の先輩で。あっちがやりにくそうでしたよ。
父は出張が多いため、家はいつも子供3人と、千歳ばあちゃんだけ。でも幸せな事に、親戚のおばさんや内浦のおばちゃん達が週に2~3回、とにかくいろいろな家の“おすそわけ”をもってきてくれて。すごく楽しみでした。いろんな味も教えてもらってましたね。妹とよく、どこそこのバラ寿司がおいしいとか、言ってたなぁ。
高校の時が1番辛かった。高校まで最低1時間半かかる田舎やったし、とにかく、勉強したくても時間が無くて。 駅降りたら、大手のスーパーへ行って。両手に…カバン とサブバック、それと買い物袋。 大根とか、当時の洗濯用洗剤とか重くて、そういうの引っ提げてバスに乗って帰ってきてました。いつもいつも忙しくてさあ。今と同じか?
放課後、プラプラゆっくり、友達とサテンに寄るとか、他の友達がものすごく羨ましかった。高3の冬、なんせ1月が共通一次とやらじゃないですか。志望は国立やったし、 本当に学校へ行かんでよく家で勉強してましたね。出席日数がギリギリとかいう噂もあったし。とにかく早く大学に入ってバンドしたかった。これも一生忘れない、ありがたいことなんですが、親友のH子と、Y子のお母さんが、毎週交代で私の分のお弁当をつくってくれたんです。 昼休みになると、上の階から2人のうち、どっちかが弁当もって降りてくるわけ。毎日もらう時、気恥ずかしくて嬉しい顔を隠してたなあ。
そんな日々だったから、私、4ヶ月のガンとの闘病生活の母のとこへは、ほとんど見舞いに行かなかったんですよ。 というか、行くと、もう悲しくて。行く度に、やせてやつれて弱く小さくなってく母に会うのが、正直言って耐えられなかったんです。気丈で明るくて、声の大きな人だった から。大腸ガンやったけん、固形物は一切食べれんの。1ヶ月で10kg近くやせたとかいってた。私や妹が何ら付き添いをしなくてよかったのも、父方の親戚のおばちゃん達のおかげでしたね。口にするのは恥ずかしいし、申し訳なさでたまんないんですが、見舞いにあまり行かなかった事を悔いてます。
多分、一生、悔やんでいくと思いますね、私。時スデニオソシ!!
でも、母が反対してた夢を突っ走ってきて、命日の12月4 日に1stCDが刷り上ったこととか、そして、今回の事、節目節目によく私のお母さんは登場してくるんで不思議です。
10/15の祭り岡垣の会場で、たくさん、お母さんを知ってる人に声をかけてもらい ました。上京して9年目にして、母につながった気がする。父は、母の他界から3年後に再婚し、「new母」を私達兄弟3人は「母さん」と、「お」を取って呼んでます。(結婚式 の前夜、3人で「明日から何て呼ぶか?」と話し合った!)めっちゃくちゃ人間がデキテル素晴らしい人で。大の仲良しです。お母さんの仏壇も大事にしてくれてるし。長くなりましたが、お母さんの作文はページ下の「亡母の作文」に掲載していますので、読んでみて下さい。
ご希望の方は、千鶴伽倶楽部までお知らせください。コピーを送らせていただきます。
あーあ…今頃ね、対等に1人の人間として、お母さんと話がしたいと思う事がある。
これからも私は、自分の歌を通していろんな人達と出会っていくと思います。
そんでもって、また、いろーんな出来事に出会ってくんでしょうねえ。
最後まで読んでくれてありがとう。 千鶴伽
1980年ごろ
農協の作文集より
『私の生きがい』 内浦 宮内芙美江
生きがい・・・・・・それは生きていく上で支えとなる様な、喜びや張り合いが感じられる物事。
幸せにも私には毎日生きていると感じさせてくれる事がある。
先づ若い頃から身につけた英語の会話。幼い頃からアメリカ文化センターがある大濠公園の側に住んでいた為、入れ替わる外国人家族と親しく挨拶を交わす様になった。
学生の頃は板付、春日原、雁の巣にあった米軍基地へ、その会話力を試しに出向いた。
多額の費用もかけず、その環境とチャンスに恵まれた。 数年前、この基地も全て撤去され、兵役で来ていた軍人家族も本土に帰り拡大な自然が日本に変換された。
毎朝“起床”の号令で起こされた程、根っからの帝国軍人であった父にいつも怒られたものだ。
然し、ヤングもロートルも海外旅行ブームとなった今、英会話が増々役に立ち、いろんな所で口だけで人のお世話が出来る事は、私の生きがいである。
今の学生さんにとってあんなふうに屈託なく、大勢の外国人を相手に自分の会話を試す場所がなくなり本当に同情する。
さて、もう一つの生きがいは、ひょんな事から始めた三味線で、博多からいきなり海と山に囲まれた内浦へ越してきた当時、晴耕雨読の風習になじめず滅入っていた私に、「ブツブツ言わず、これで一日楽しんどけ。」と主人が買って来たのが質流れの様な三味線でした。
ビートルズやプレスリーにのぼせていた私はびっくり仰天・・・・・三味線の音なんて余り好きではなかったけど、そこに置いておくのも主人に悪くて、公民館講座に足を運び始めた。
他の楽器では味わえない、しっとりとした雰囲気の長唄に魅せられ、知らず知らず引き込まれていった。
ようやく人の歌につけて伴奏出来る様になった頃、これまで新聞やニュースで見る度に人事とばかり思っていた交通事故にあい、九死に一生を得た。
私の長期にわたる入院で年老いた親や、主人、子供達を半狂乱にした。一瞬にして人を生涯不具者となし、平和な家庭を谷底に突き落とす過酷な運命が、いつ我が家に降りかかるか、わからない現代の文明社会、やはりこれを乗り越えるには、自分の精神力もさることながら、生きがいと
※ 一部読み取れず
思い起こせば、主人が「チョット待って僕も行くから。」と言うのを振りきって、アクセルを踏んで出た直後、十八才の暴走族に激突され車は炎上し火傷を始め、両手、両足、骨盤、ろっ骨等、全部複雑骨折の上、前歯はズラリと折れてしまい、あご骨は外れ、額は割れ、左眼は神経が切れ、唇は裂けてゆがみ、内臓は破裂、担ぎ込まれた時、数人の医者が見放した程の重体であった。全身をギプスで固定され、目だけ残して包帯で巻かれまるで人造人間の様な苦しい悲しい生活が、突然私に強いられた。一見してその異様な形相に子供達も近寄らなかった。
※ 一部読み取れず
いい、右手だけはペンが握れて、スペルが書けなければ、いやバチが握れれば、左手では三味線の糸を握れるだろうか、と叩いてもつねっても感覚の無い両手に「きっとすべてを断念しなければならないかも。」と、胸の奥から泣いた。
天井ばかりしか見えない毎日だったので、自分のベットは地上二十~三十メートル位の三階位かな・・・・・と思い「今すぐあの窓から放り投げて」と、朝に晩に付添人を困らせた。
後日覗いてみたら僅か四~五メートルの二階の病棟だった。 加害者を恨んだ。 神に祈った。
それからのベット生活は、とても一~二時間では説明出来ない。
努めて人の手を借りず、食事の時は皿の中に顔を埋めて目も鼻もグチャグチャに汚して食べ、骨盤の骨折により尿便の始末に困った。
洗面も天井から歯ブラシを吊るしてもらい、顔を左右に振って磨いた。見ている方は、こっけいだったかもしれないが、整形の医師スタッフも舌を巻く程の努力を重ねた。
半年後、左手の感覚が一ミリずつ戻った。 一人でバンザイをした。 生きる喜びを知った。
生命の尊さを、人の情を知った。これ程、私に勇気を与え、勇気づけたのも、三味線という生きがいと、私を待っていてくれる受験生が居たればこそで、只主人と子供の世話だけなら、あれ程の努力をするどころか、叶わない部分は甘えて、やってもらっていた事でしょう。
今後も後遺症の障害は、有りますが、ハンディを背負って、前より一層私の生きがいを大切にすると同時に又、もう一つ増やしたいものだと望んでいる。
2003年
3rdアルバムを絵本CDとして作るきっかけにもなった、島のおじいさんとの出会いについてのエッセイ
とかしき島のおじいさんとの出会い
2002年秋、那覇の知り合いから送られてきた島の海の写真を見て、私は即、渡嘉敷村役場へ電話をした。
「千鶴伽と申しますが、島の海が綺麗なので、島で歌わせてください!」
その時、島は台風の被害で道路が崩壊するという大惨事の真っ直中で、「イベントどころじゃないので2ヶ月位して再度電話を」との事。 以来、色々ないきさつがあり、翌2003年3月と8月の2回、島のイベントへの出演にこぎつけた。
これにも、汗と涙のエピソードがあるが、それはまたの機会にするとして。
島の人たちと関わっていく中で、『戦争の話を聞いた上で島の歌を作りたい』と思い始めたことは、 ひめゆりの塔へ初めて沖縄に着いたその日に行った事の衝撃が影響していると思う。
こういう話を北海道の子供達は知ってるのだろうか?
生き証人として涙を流しながら戦争体験を喋っていたさっきのおばあちゃんは、来年もまだいらっしゃるだろうか?
そして2003年の1月末、島の歌を作ろうと決心して私は渡嘉敷島へ行った。
しかし、実際は集団自決というものをなかなか直接島人に尋ねることができず、困ってしまい、 とりあえず資料館へいった。そこで、Kおじいさんと出会う。
錆付いた短剣を眺めていた私に、「集団自決の時、これで若い男の子が家族を刺していったんだよ。
僕は中学生で刺される人の背中を支える役目だったよ。人間の胸は硬いからね。」と語りかけてきた。
いくつか質問してみたら、「君は新聞記者なの?」とちょっとこわい顔で尋ねられ、「島の歌を作りたくて来た。」と、島の案内を思い切って頼んでみた。
「Kと言う名前をいえばわかるから、宿の人に言って、明日のお昼に車で送ってもらってきなさい。」と言われ、翌日、島中をおじいさんは軽自動車に乗って案内してくれた。
夕方、別れる時に運転席から片腕を伸ばして、振り向かないままで私に手を振りながら、青い空の下、消えていった光景が今でも忘れられない。
1月末とはいえ、10度前後もあったが、ここ数年では最低で皆寒い寒いと言っていた。
なのに、日差しは夏のように強かった記憶がある。
その夜は、慶良間太鼓の練習に参加することになっていたが、その時点で私は気が滅入ってしまっていた。
特に、日本軍人による島人や朝鮮人に対する血みどろの残虐行為の話が衝撃的過ぎて、『教科書問題』 などという言葉も頭に浮かびつつ、亡祖父は軍人だったなぁとか思い出したりもしていた。
青い海と空、真っ白な砂浜という島のイメージが、真っ赤な怒りと驚きに塗り替えられてしまった感じで、「私はこの島の曲を書けるのだろうか?」と、正直へこんでしまっていた。
そんな気持ちのまま、練習場所である体育館へ。
そこで、私はまた以下の衝撃的な話を聞くことになる。
資料館のKおじさんは3ヶ月程前に30代半ばの息子を海難事故で亡くし、それ以来、戦争について取材をしに来るマスコミ関係者も含め誰とも口をきかなくなってしまっているという。
昼間のおじいさんとの島探検の話をすると、皆驚いて、「おまえよぉ~!すげえことしたなあ。」、「いや~ぁ、いいことしたよな千鶴伽は。ありがとなぁ。」と。
その夜、閑散期のため、のペンションはガランとしていた。
私はどうしても一人で部屋に寝るのが怖くてたまらず、宿主に頼んで修学旅行中の息子の部屋に寝かせてもらった。
数日後、東京に戻り、1ヵ月後の『とかしき島の歌コンテスト』に向けてがんばった。
とにかく、おじいさんに自分の作った曲を早く聞いてもらいたいなと変に焦ったりもした。
でも、まさか血みどろな歌詞など書けるわけないという妙な生みの苦しみの中でなんとか完成し、応募。
めでたく最終選考5組に選ばれ、3月初旬の「渡嘉敷島の歌コンテスト」へ出場。
審査は、観光客も加えた投票制で、結果は288票対287票。私は1票差の2位だった。
表彰式の後、ステージから数百メートル離れた所に立っていたおじいさんが、「ちづ~かぁ~を、いつもの5万円の双眼鏡よりもっと高い8万円の双眼鏡でここから見ていたよ~」と笑っていた。
「え~?なんで生で聞いてくれんやったとよぉ~。」と私は思わず叫んでしまった。
しかし、おじいさんはいつものようにニッコリしただけ。
「2位で悔しかったけどさぁ~」と、カッコ悪いとは思いつつ、彼には本音を言ってしまった。
そして、島の戦争慰霊碑である『白玉之塔』へ、また連れて行ってもらった。
その夜に、またもや島人に衝撃的な話を聞かされてしまった。
おじいさんは、数週間前に、今度は兄弟を亡くしていて、『不幸事があった人は祭り事に参加できない』という慣わしのため、祭りの会場には近付けず、離れたとこに立って私を双眼鏡で見ていたんだと。
以来、3月末の慰霊祭の時には島へ行ったりと、交流は続いている。
全国での旅話の一つとして、世界で5本の指に入るこの島の海の美しさとそこに秘められてきた悲しい話を、私流に紹介している。特に北海道の子供達には、この話をしたいと思っている。
このコンテストから約一年後の那覇の夜。
1位だった山村ジュン氏と、那覇で再会し、ある事実が判明。
なんと私達は10年前、東京で催されたあるコンテストに二人とも出場していて、会場のトイレの前でお互いに挨拶し合っていたのだった。
東京に戻ってすぐに、埃まみれになっていたそのコンテストのパンフレットを開いてみたら、今より10年若い私の顔がドアップで写っているその次の次のページに、やはり10年若いジュンちゃんが笑っていた。
咲き乱れてるツツジと たわむれてゆく
シベリア海を旅して 鯨が
また この島へと 春を連れて来た
此処に在るもの 永遠に
そんな夜には 珊瑚礁の声を聞く
失いかけた夢の貝殻を
さあ この島で拾い集めてゆこう
此処に在るもの 永遠に
青い楽園
白い心眠る あの塔に誓う
かけがえのない 渡嘉敷の空
僕らが守ってゆく
白い砂浜 七色の海
此処に在るもの 永遠に
満天の星 朝の輝き
此処に在るもの 永遠に
青い楽園
此処に在るのは 青い楽園