■約20年近く前の農協の作文集より
 『私の生きがい』 内浦 宮内芙美江
 
 
生きがい・・・・・・それは生きていく上で支えとなる様な、喜びや張り合いが感じられる物事。
幸せにも私には毎日生きていると感じさせてくれる事がある。
先づ若い頃から身につけた英語の会話。幼い頃からアメリカ文化センターがある大濠公園の側に住んで
いた為、入れ替わる外国人家族と親しく挨拶を交わす様になった。
学生の頃は板付、春日原、雁の巣にあった米軍基地へ、その会話力を試しに出向いた。
多額の費用もかけず、その環境とチャンスに恵まれた。 数年前、この基地も全て撤去され、兵役で
来ていた軍人家族も本土に帰り拡大な自然が日本に変換された。
毎朝“起床”の号令で起こされた程、根っからの帝国軍人であった父にいつも怒られたものだ。
然し、ヤングもロートルも海外旅行ブームとなった今、英会話が増々役に立ち、いろんな所で口だけで
人のお世話が出来る事は、私の生きがいである。
今の学生さんにとってあんなふうに屈託なく、大勢の外国人を相手に自分の会話を試す場所がなくなり
本当に同情する。  

さて、もう一つの生きがいは、ひょんな事から始めた三味線で、博多からいきなり海と山に囲まれた内浦へ
越してきた当時、晴耕雨読の風習になじめず滅入っていた私に、「ブツブツ言わず、これで一日楽しんどけ。」
と主人が買って来たのが質流れの様な三味線でした。
ビートルズやプレスリーにのぼせていた私はびっくり仰天・・・・・三味線の音なんて余り好きではなかった
けど、そこに置いておくのも主人に悪くて、公民館講座に足を運び始めた。
他の楽器では味わえない、しっとりとした雰囲気の長唄に魅せられ、知らず知らず引き込まれていった。
ようやく人の歌につけて伴奏出来る様になった頃、これまで新聞やニュースで見る度に人事とばかり思って
いた交通事故にあい、九死に一生を得た。
私の長期にわたる入院で年老いた親や、主人、子供達を半狂乱にした。
一瞬にして人を生涯不具者となし、平和な家庭を谷底に突き落とす過酷な運命が、いつ我が家に降りかかるか、
わからない現代の文明社会、やはりこれを乗り越えるには、自分の精神力もさることながら、生きがいと

※ 一部読み取れず

思い起こせば、主人が「チョット待って僕も行くから。」と言うのを振りきって、アクセルを踏んで出た直後、
十八才の暴走族に激突され車は炎上し火傷を始め、両手、両足、骨盤、ろっ骨等、全部複雑骨折の上、
前歯はズラリと折れてしまい、あご骨は外れ、額は割れ、左眼は神経が切れ、唇は裂けてゆがみ、内臓は破裂、
担ぎ込まれた時、数人の医者が見放した程の重体であった。
全身をギプスで固定され、目だけ残して包帯で巻かれまるで人造人間の様な苦しい悲しい生活が、突然私に
強いられた。一般してその異様な形相に子供達も近寄らなかった。

※ 一部読み取れず

いい、右手だけはペンが握れて、スペルが書けなければ、いやバチが握れれば、左手では三味線の糸を握れる
だろうか、と叩いてもつねっても感覚の無い両手に「きっとすべてを断念しなければならないかも。」と、
胸の奥から泣いた。
天井ばかりしか見えない毎日だったので、自分のベットは地上二十〜三十メートル位の三階位かな・・・・・と
思い「今すぐあの窓から放り投げて」と、朝に晩に付添人を困らせた。
後日覗いてみたら僅か四〜五メートルの二階の病棟だった。 加害者を恨んだ。 神に祈った。
それからのベット生活は、とても一〜二時間では説明出来ない。
努めて人の手を借りず、食事の時は皿の中に顔を埋めて目も鼻もグチャグチャに汚して食べ、骨盤の骨折に
より尿便の始末に困った。
洗面も天井から歯ブラシを吊るしてもらい、顔を左右に振って磨いた。
見ている方は、こっけいだったかもしれないが、整形の医師スタッフも舌を巻く程の努力を重ねた。
半年後、左手の感覚が一ミリずつ戻った。 一人でバンザイをした。 生きる喜びを知った。
生命の尊さを、人の情を知った。 これ程、私に勇気を与え、勇気づけたのも、三味線という生きがいと、
私を待っていてくれる受験生が居たればこそで、只主人と子供の世話だけなら、あれ程の努力をするどころか、
叶わない部分は甘えて、やってもらっていた事でしょう。
今後も後遺症の障害は、有りますが、ハンディを背負って、前より一層私の生きがいを大切にすると同時に又、
もう一つ増やしたいものだと望んでいる。
 
 
 
>千鶴伽倶楽部 TOP