■亡き母との再会
 
 
9/15に故郷の隣町、尾崎区での「伊豆地震&敬老のためのコンサート」に出演させていただいた時の事。
8月の北海道ツアー(8/17〜20)、それに、この後に続いた9/21〜24の老人ホーム&南九州ツアー、
10/11〜10/15の5連チャンの大阪〜北九州〜祭り岡垣のツアーと、鬼のようにライブが入ってて、
出演に関してはかなり迷ったのですが、主催者の熱意に負け、赤字覚悟で帰省して大正解!
ほんとにステキなコンサートでした。

昼の部は50人くらいの爺婆様がお客様、夜の部は中高生〜ママさんまでイロイロ100人位?
主催の尾崎区のおじちゃん達の、熱意あふれる、手作りのコンサート。
リハーサルを終えた私に、スタッフの一人である、感じの良いおばちゃんが「千鶴伽さんは
(岡垣町の)内浦(うつら)出身なんでしょう? 東京で頑張ってらっしゃるって聞いてますけど。
まあぁ…あんなところ(つまりド田舎ということ)に、そんな活動的な女性がおらっしゃったなんてねえ。
ずーっとむかーし、そういう人があの辺りにいて、私が勤めている農協の文集に作文が載ってたんよ。」と。
そして昼、夜の部と、蓑ちゃん(ドリームボートの店長)のギターと2人で本番を無事に終えた、打ち上げの席。
私の本名を聞いた、さっきのおばちゃんがですねぇ、「まあ、あなた、まさかあの英語塾をしてられた宮内さんって
人の娘さんじゃないのぉ〜!まぁぁぁ〜!お母さんの血をひいとられるんやね ぇ!」と絶叫!!
実は私が小5の時、亡母は大事故に遭い、乗ってた車が大破。
奇跡的に命をとりとめましたが、当初、もう助からないとか、両足切断とか、よくて一生車椅子とか
言われてたのでした。まだ子供だったので、こわくて聞けんかった事もあり、記憶の片隅に残る言葉を思い返すと、
確か体中400針くらい縫ってるとか、左目の視神経が切れて見えなくなってるとか、ヒザやヒジなどに金具?を
うめこんでるとか。で、2年ほどの入院生活の後、奇跡的に回復し、足を引きずりつつも、日常生活に問題ない
とこまで回復、英語塾を再開。

結局、それもむなしく、私が高3の夏に、ガンがみつかり入院、12月4日に、4ヶ月の本当に壮絶な
闘病生活の後、他界しましてね。ちょうど思春期だったし、私が高3、妹が中3、弟中2の時で、おそらく3人とも、
一人の人間として、母親と対等に話せないままになってしまいました。
自分の生きがいの事を、その事故からの復帰をからめて書いた作文が、農協の文集に載って地元で話題に
なった話は、チラホラと聞いた記憶が残っているくらいで、兄弟3人共、そんなの読んだこともなかったし。

そのコンサート後、父に聞いても、持ってなくて。
何より嬉しいのは、そのおばちゃんは母親と面識はないのに、その作文のことを強く覚えておられて、
私の歌う姿を見て、母親と私を結びつけてくださった事。話は続きます。
ちょうど1ヵ月後の10/15の祭り岡垣のステージ。最後の歌を歌 い切った時、最初にステージに花束を
持ってきて下さった方が、その方で、尾崎区の皆さんからのお花といっしょに、亡き母の作文のコピーを
渡して下さいました。そもそも尾崎区から花束が届いたのはですね….尾崎区でのライブのCD売り上げを、
私が伊豆地震の募金に寄付してて、その事を区長さんが後で大へん喜んでくれたらしく、10月15日に
是非、区から花を送ろうという事になったそうで。
そのおばちゃんが、「私がこの作文と一緒に持っていきますよ」って事になったらしい。
そういう役目がなかったら、おそらく前川清を見るのに入場整理券の争奪戦が繰り広げられていたくらいだから、
おばちゃんはその日の会場には入れんやったと思う。
10月15日の本番の後、妹と初めて読みました。我が母上の作文。
うちのお母さんらしく、自分の生きがいは「亭主や子供ではなく、塾の生徒!」と書かれてあってさぁ。 
笑いましたねぇ。 そんでもって泣きました、2人で。
他には、小学生だった為に知らされてなかった、事故当時の状況。
読むに耐えない事、いっぱい書いてあり、心にしみました。
亡くなった母の事は初めて書きます。
私は幼稚園の頃からすごく歌手になりたいって 思ってたけど、1度もそれを他の人に言ったことなくて。
中学の頃だったか、こっそり応募して受かったオーディションの合格通知、よく破り捨てられてました。
“こんな片田舎から歌手になろうなんて、なんをいいよるとね!!”(何を言ってるの?なれるわけがない
でしょう?の意)母自身、三味線を始め、小学生の時からピアノをやってた私の事 を、telで友達に「千鶴香が
大人になって、悲しい事があったとき、なんか、なぐさめになると思うったいねぇ」と、言ってて、驚いた事が
ありました。独学の英会話で、あちこちで外人の友達をつくってたこととかは、今の自分にかなり通じるモノ、
ありますね。 米軍基地へ良く行ってたから、子供の時、家ではプレスリーやカーペンターズとかいう歌手の
名前、音楽も?よくとびかっていて、TVで松田聖子とかが歌うと「どーして日本の歌手は下手かね?」と
けなしてて。子供ながら、何故これが下手なのか理解できませんでした。
やっぱり性格的に私は本当に母譲りのところが多くて。15日はいろんな人に、顔が似てきたとか言われましたね。
小五の時の交通事故までは、普通の家庭でしたが、その事故の日からはもう大変で。
妹と弟の面倒をみつつ…小学校から帰ると急いで夕食を作って(よくシチューをつくりましたね。親戚のおばちゃんに
教えてもらったけん!)そろばん、空手、ピアノ、バトミン トンと習い事にでかけて。
夜は、お父さんのカッターのアイロン、洗濯。
高校の時、 妹とよく、どっちが夕食作るか、どっちが弟の弁当作るか…etcケンカしました。
そうだ!大学のとき、弟の高校入試の三者面談に、父が出張やったけん、かわりにいったらさぁ。
担任が新任の同じ大学の先輩で。あっちがやりにくそうでしたよ。

父は出張が多いため、家はいつも子供3人と、千歳ばあちゃんだけ。でも幸せな事に、親戚のおばさんや
内浦のおばちゃん達が週に2〜3回、とにかくいろいろな家の“おすそわけ”をもってきてくれて。
すごく楽しみでした。いろんな味も教えてもらってましたね。妹 とよく、どこそこのバラ寿司がおいしいとか、
言ってたなぁ。 高校の時が1番辛かった。 高校まで最低1時間半かかる田舎やったし、とにかく、勉強したくても
時間が無くて。 駅降りたら、大手のスーパーへ行って。 両手に…カバン とサブバック、それと買い物袋。
大根とか、当時の洗濯用洗剤とか重くて、そういうの引っ提げてバスに乗って帰ってきてました。
いつもいつも忙しくてさあ。今と同じか? 放課後、プラプラゆっくり、友達とサテンに寄るとか、他の友達が
ものすごく羨ましかった。高3の冬、なんせ1月が共通一次とやらじゃないですか。
志望は国立やったし、 本当に学校へ行かんでよく家で勉強してましたね。出席日数がギリギリとかいう噂も
あったし。とにかく早く大学に入ってバンドしたかった。
これも一生忘れない、ありがたいことなんですが、親友のH子と、Y子のお母さんが、毎週交代で私の分の
お弁当をつくってくれたんです。 昼休みになると、上の階から2人のうち、どっちかが弁当もって降りてくるわけ。
毎日もらう時、気恥ずかしくて嬉しい顔を隠してたなあ。そんな日々だったから、私、4ヶ月のガンとの闘病生活の
母のとこへは、ほとんど見舞いに行かなかったんですよ。 というか、行くと、もう悲しくて。
行く度に、やせてやつれて弱く小さくなってく母に会うのが、正直言って耐えられなかったんです。
気丈で明るくて、声の大きな人だった から。大腸ガンやったけん、固形物は一切食べれんの。
1ヶ月で10kg近くやせたとかいってた。 私や妹が何ら付き添いをしなくてよかったのも、父方の親戚の
おばちゃ ん達のおかげでしたね。口にするのは恥ずかしいし、申し訳なさでたまんないんですが、
見舞いにあまり行かなかった事を悔いてます。 多分、一生、悔やんでいくと思いますね、 私。
時スデニオソシ!!

でも、母が反対してた夢を突っ走ってきて、命日の12月4 日に1stCDが刷り上ったこととか、そして、今回の事、
節目節目によく私のお母さんは登場してくるんで不思議です。
10/15の祭り岡垣の会場で、たくさん、お母さんを知ってる人に声をかけてもらい ました。上京して9年目にして、
母につながった気がする。父は、母の他界から3年後に再婚し、「new母」を私達兄弟3人は「母さん」と、「お」を
取って呼んでます。(結婚式 の前夜、3人で「明日から何て呼ぶか?」と話し合った!)
めっちゃくちゃ人間がデキテル素晴らしい人で。大の仲良しです。お母さんの仏壇も大事にしてくれてるし。
長くな りましたが、お母さんの作文はホームページに掲載していますので、読んでみて下さい。 
ご希望の方は、千鶴伽倶楽部までお知らせください。コピーを送らせていただきます。
あーあ…今頃ね、対等に1人の人間として、お母さんと話がしたいと思う事がある。
これからも私は、自分の歌を通していろんな人達と出会っていくと思います。
そんでもって、また、いろーんな出来事に出会ってくんでしょうねえ。
 
  最後まで読んでくれてありがとう。  千鶴伽
 
 
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